人生100年時代とか言われ、上がり続ける日本の平均寿命。
現在日本人の90歳以上の95%が要介護、そして下がり続ける介護職員と予想される介護費用の高騰。
人間最後は家族に看取られて家の布団で死にたい、、、そんな風に最後を迎えたいなあ、と思う人が多いのかなと思います。
僕もできれば最後はそんな感じがいいです。
しかし、家族がいるか、いないか、というのも大きな問題であるとして、この技術が進みに進んだ近未来、果たして人間は満足な老後を迎えられるのか?と思うわけです。
僕はよく考えていることですが、幸せになるには少なくとも二つの大きな条件があります。健康と豊かな人間関係です(こちらについて以前のブログ記事”人生を幸せに生きるには、、? 99%の人に当てはまる「幸福の決定要素」”をご覧ください)。お金は最低限の生活を送る上で必要ですが、お金があっても健康と人間関係がないとかなり高い確率で不幸になります。
それをふまえ、延命技術がかなり進んで人間が現在人間の「本来生まれ持った体」の限界であろうとされている120歳程度まで生きる事ができるようになった場合、多くの人は「まだ生きたい」と思えるような状況にあるでしょうか? そこは最近僕がよく疑問に思っている点です。
医療技術によって「生かされる」ことができても、人間関係の面で果たしてその時にいろいろな事を話合えたり、共感できたりすることができる「友人」や心の通った家族がいるのか? 周りの人々が世を去っている可能性が高ければ、そういった年齢になる前に、年下の友人が作れるようにならなければ難しいかと思います。
同時に健康面も重要です。たとえ体が「生きていた」としても、健康でなければ何もできません。単なる寿命だけでなくいわゆる「健康寿命」を伸ばさないことにはまったく不自由な体でずっとベッドに寝かされ自分一人では何もできない、食事も胃ろうでただ注入するだけ、、、まったく彩りのない生活となってしまいます。
今の技術の向上状況を考えると身体だけは医療の力で生かされている老人が未来には爆増するのではいかと思います。果たしてこういった状態の老人が「生きていたい」と思うのか、そしてその延命を本人が満足いく形でサポートするだけの医療費をなかなう予算がその時の日本にあるのかどうか、どちらもまた大いに疑問です。
僕はこうした状況を鑑みると近い将来「死ぬ権利(安楽死する権利)」について論争が起こるのではないだろうかと思っています。今の日本は安楽死は合法となってはおらず、本人が真摯に死ぬことを望んだとしても、それを助けるような行為を行えば自殺関与、同意殺人罪(刑法202条)が適用されてしまいます。
安楽死とは「死期が切迫しており、苦痛を感じる状況にある人間に対して、殺害することで苦痛から解放する」場合を指しますが、むやみに寿命を伸ばしていった先にあるものが苦痛(精神的、肉体的、もしくは両方)しか感じないような状況になる老人はこの先大いに増えるでしょう。
そうなったとき自らの命を絶つ権利として「安楽死」を合法化していくのが一番の解決策、となるような未来はすぐそこに来ているのではないのでしょうか。
たとえ健康であり、人間関係が豊かな高齢者であってもそれまでお金に大いに頼って生活してきた人である場合、そしてその資金が長い老後生活の中で尽きてしまったらどうなるでしょう。最低限のお金で生きていくための最低限の知恵がなければ、おそらくやはりそれまでの生活を維持できない失望感と困惑、不安を感じてしまい、生きていくための力がなくなり心が折れてしまうかもしれません。生活レベルを下げることは例え若い人であっても大変なストレスを伴うからです。そして将来の財源不安をかかえる日本では公的なサポートの面でもお金が無くなるリスクというのは大いにありうるストーリーだと思います。それに対策を立てるとなれば、自分自身が持っていた価値観自体を大きく改めなくてはいけない状況になるでしょう(ちなみにブログ主は別にお金は生活保護並みのギリギリしかなくても健康さえしっかりしてれば最低限の人間関係はいつからでも構築して人生はかなりエンジョイできると考えています。それには相応の知恵と経験が必要ですがこれらは手遅れになる前に身に付けていかねばいけないでしょう)。
高齢者の介護に関連すればロボットなどの機械化や効率化も現段階では難しいとされています。行政にしても日本の国力や円安なども手伝いこうした高齢者への対応を十分にまかなうだけのお金が日本にあるかはわかりません。間違いなく僕たちの一人一人がこの「長生きリスク」と「安楽死する権利」はセットで将来を考えていく局面に来ているのだと思います。
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