楽曲レビュー#1 米津玄師/ Flamingo 歌詞の意味を独自に解釈&解説!

楽曲レビュー 邦楽


こんにちはー 駆け出しブロガー、らーきいです!
米津玄師さんの9th シングル、Flamingo を独自に解釈し、解説します!

歌詞のフルバージョンはこちら
https://www.uta-net.com/song/258001/
(以下の太文字にあたる部分は出典: 米津玄師/ Flamingo からの引用です。)

フラミンゴって、皆さんどんなイメージを持ちますか? アフリカや中南米に生息する長い脚を持つピンクの鳥です。

アメリカではよく庭先にフラミンゴの置物なんかが地面に刺さってる家があります。長い首の曲線から二匹が向かい合うとハートの形になるので、平和や愛の象徴といったイメージを持つ人がおおいですね。

さて、米津玄師 の作り出す「flamingo」はどんな歌を歌ってくれるんでしょう? では歌詞を解釈していきます!

歌詞を眺めてみると現代ではもう使う事がないような古い言葉がならんでいます。普通に聞いてもすぐに理解するのはきっと簡単ではないですよね。

ただ古語の意味をきちんと理解しても、全体の解釈は容易ではありませんし、考えようによってはいくつも案が出てくるでしょう。

まず以前米津氏本人が曲のコンセプトについてコメントを出していますので見てみましょう!

米津玄師コメント
この曲は「みっともなさ」をテーマに作りました。
音楽を通すこ
とでしかできない表現ってなんだろう?と常々考えます。
音楽であればしょうもないみっともなさもより深く広く響かせることができます。
みっともないなーとへらへら笑いながら作りました。

引用 https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_f26e4e45-0a31-4e57-a204-e10957d39b38.html

以上を参考に歌詞を言葉が使われていた当時の時代設定(江戸時代あたりとしましょうか)として解釈していきます。

登場人物は遊郭で生きる「女」、そしてその遊女にぞっこんの主人公(客)のちょいとみっともないやりとりと生き様を歌っているとします。

そんな背景を踏まえ米津玄師の描く「みっともなさ」を解釈してみましょう。

”宵闇に ~ へらへらり”  

いきなりですが、日常的には聞きなれない言葉のオンパレードです。訳を付けてみます。

「宵闇/よいやみ」 宵のうち月が出なくて暗いこと。その時間。ゆうやみ 

「爪弾き/つまはじき」 嫌悪・排斥すること。非難すること。           

「雨曝し / あまざらし」 おおいをしないで、雨にぬれるままにほうっておくこと。    

「花曇り / はなぐもり」 春,サクラの咲くころの曇天。  

「にべもなし」 そっけない、愛想がない

「侘しげ / わびしげ」 失望・失意や不遇で、やりきれなくつらい。また、頼るものがなく、心細い。

江戸時代より東京吉原、京都島原、大阪飛田新地などをはじめ、公許の遊女屋が集ま遊廓が各地に存在していました。多くの遊女がそこで働き、また、その遊女に惹かれて夜ごと通う男たち。この歌詞はとある遊郭でのそんな男と女のお話です。

桜咲く春、夕闇からもはじかれてしまう男、「悲しみに雨ざらし」というのはおそらく比喩表現で、お気に入りの遊女からつれなくされた主人公の男は、そんな曇り空の下で悲しみの雨に打たれているかのような心境です。「枯れた街」にみえるのはそんな心境だからでしょう。そんな失意のうちでも、まだへらへらする余裕はあるようですね。

笑えない ~ あらましき恋敵”

「唐紅」 濃い紅色のことで、深紅の色を指す。                                         「あらましい」自然の状態や、人の振る舞い・性格が荒々しい事

ここで男が入れ込む「遊女」の描写が入ります。彼女の髪には美しい深紅の髪飾り。人気の遊女ともなれば当然、本気で彼女を狙ってくる他の客もいます。主人公の男はそんな振舞の荒々しいライバルとも張り合わねばならないのでしょう。遊女からもつれなくされてるのにライバルにも気を配らなきゃならない泥沼、そんな面白くない状況を「笑えないチンケな泥仕合」と吹いているのでしょうか。

触りたいベルベット~薄ら寒い笑みに”

まなじりとは「目じり」の事。「ベルベット」はビロードとも呼ばれる服飾の素材でやわらかな感触があります。遊女のその冷ややかな微笑の、やわらかな彼女目じりに触ってみたいのです。これだけ古い言葉を並べる中でいきなり「ベルベット」という西洋言葉を唐突に使います。すごいセンスですね。

あなたは(フラフラフラ)~ 次はもっと大事にして”

ここでいうフラミンゴはもちろん美しき遊女、その踊りは舞い立つ鳥のように優雅なのでしょう。でも自分のものにならない、他のお客と行ったり来たりの彼女の態度に対し「フラフラ」という言葉と「フラミンゴ」を掛け合わせています。そんな遊女のつれない態度に男の寂しさと嫉妬は絶頂、本来なら「毎度あり」という言葉を使うのはお金を受け取る側である遊女のはずですが、男は「(こっちは得意客なんだから)次はもっと大事にしてよ」という言葉と一緒に皮肉で言っているのでしょうか。しかし遊女にしてみればあくまでも男は商売の対象なのでしょう。

時代は違えど銀座のクラブに通ってはお目当てのホステスを口説き落とそうとしてるお客さんと構図は一緒ですね。さて、ダメダメ街道を突っ走る男の次なる展開を見てみましょう!

”御目通り~ 阿呆晒し

またまた難解な言葉の登場です。

「お目通り」高貴な人に会うことが許され、会うこと。    

「 虚仮威し/こけおどし 」浅はかな見えすいたおどし。見せかけだけもっともらしく見せること。               

「口遊み/くちづさみ」何となく心に浮かんだ(詩歌の)文句を、軽く声に出す。                         

「 狼狽に/うろたえに」思いがけない事に驚き、どうすればよいかが分からず、まごつく。

さて、またも遊女に会いにくる男。その心境はまるで高貴な人に会うような気分なのでしょう。「ありがたい」という表現からもそれが伺えます。遊女のうまい接客にのぼせ上がってしまう男、調子に乗った男は教養などないにもかかわらず虚勢を張って和歌か詩などを読んだのでしょう。遊郭ですので座敷遊びとして和歌を読むのが当時の遊びだったのかも知れません。

しかし中身のない歌など詠んでもプロの遊女にはすぐに実力を見抜かれてしまいます。自分の軽率な行動に気づきうろたえる男。これはまるでただの阿呆ではないか、と自覚します。 

            

”愛おしい~光るのはあなただけでもいい”

「泡銭/あぶくぜに」働かず、また不正なことで儲けた金。 悪銭。

「昼鳶/ひるとんび」人家に昼間しのび入り、物をとって逃げる盗人。

素敵な声を持つ彼女。昼トンビとはお目当ての遊女と連れ立って部屋に入ってくる他の遊女の事でしょうか。男がどれだけのお金を用意して遊郭に来ているかは分かりませんが、「泡銭」という以上、真っ当な手段で稼いだものではないのかも知れません。さてそんな泡銭を狙ってくる他の遊女なんて男にとってはどうでもよい、と言いたいところですが、ここで書いてあるのは「あなただけでいい」ではなく「あなただけでいい」と「も」が入っています。つまり「狙っているのは100%あなただけ」というわけではなく「別の遊女がいたって、そりゃ悪くないよね」という心境なのではないでしょうか。かなり微妙な表現となっていますが、とても面白い描写ですよね!

あぶくぜにで女に入れ込む、それでいてお目当ての女が完全に定まっているわけでもなし、まさに「みっともない」男を全力で演出しています。

”それは(フラフラフラ) ~ 吐いた唾も飲まないで

惚れ込んだ遊女は魅力的です、きっとその仕草や容姿から「恐ろしく」もあるような魅力が伝わってくるのでしょう。さて楽しい時間はあっという間に過ぎていき、座敷からふわっと舞い立つ遊女とはもう「さいなら」の時間です。「おいおい、もうお終いかよ? まだ俺たちの事、ちゃんと話もしてないぜ?」

ここから男の遊女への気持ちは歪んだものになっていきます。「畜生め」と遊女に対し悪態をつく男。「吐いた唾を飲む」とは一度言ったことを無責任に撤回すること。一般的な意味を考えれば「吐いた唾は飲むべきではない」のですが、ここでは遊女が「吐いた唾も飲まない=前言撤回はしない」という意味でしょうか。となるとこの場面の前に「あなたとお付き合いですか? それはちょっと、、」くらいのやりとりが男と遊女との間であったのかも知れません。その態度が覆らないことに苛立った男の言葉が「吐いた唾も飲まないで、この畜生が!」ということであれば話が通りますね。


”氷雨に~彷徨う常しえに”

「氷雨/ひさめ」雹(ひょう)や霰(あられ)。 冬の冷たい雨                          

「常しえ/とこしえ」永久不変であるさま。

ここからは男の心の内側を表現します。さて遊郭を出て帰路につく男、運悪く冷たい雨も降ってきました。その顔は冷たくあしらわれて呆け顔。「あたし」は男の一人称ですが、右手にもった猫じゃらしとはなんでしょうか。比喩表現だとして上手く猫(女)を手懐ける猫じゃらし(お金)という解釈ができると思います。しかし男の考えは浅はかでした。「今の世じゃ、このくらい(の金額、もしくはやり方)じゃ遊女をものにするなんてできない」と気付いたのです。「これじゃあずっと家と遊郭を行ったり来たりだ。」


”地獄の閻魔に~死ぬまで猿芝居”

「張り子/はりこ」はりぼてとも言われます。外見は木や竹などでしっかり造形するが、中身は空洞となっている造形物。その構造から外見だけで中身のないハッタリというような意味があります。                 

「猿芝居/さるしばい」浅はかなしわざ・たくらみ。

遊郭と関連する言葉で「身請け」というものがあります。芸娼妓などの前借り金(借金)を支払い、約束の年季を全うする前に、芸者稼業をやめさせ、自分の妾や妻として迎えることです。かつての遊女というのは多くが間引きされた子や、借金のカタとして貧乏な家から遊郭へ売られていった子供、女性でしたので、彼女達は多額の借金を抱えており、自由になろうとしてもそれが自分の意思ではできない身分だったのです。そんな遊女を遊郭から「解放」してあげるのが「身請け」というわけです。

さて、話が少しそれましたが遊女と自分の現状を受け止めて男は恐ろしいことを思いつきます。地獄の閻魔様にお願いをするのです。「どうかあの遊女を俺のために見受け(まさに上記の「身請け」の暗示でしょう)てくれ」、もしくは「俺のものにならないなら閻魔様、あんた身請けてやってくれよ」という意味でしょうか。

身請けには多額の金が必要なので「あぶくぜに」しか持っていない男にはとてもとてもできない芸当です。そんな男が考えることは「俺のものにならないんならそんな女、地獄に落っこちりゃあいいんだよ」とでもいうような身勝手さ。

もうみっともない男、ここに極まれり、といいますか(笑)

「いいんだよ、これが酔っ払ったハッタリ男のお話さ。この薄っぺらい猿芝居、なんなら死ぬまでやったろかい」

そんな男の本音が聞こえてきます。

”あなた(フラフラフラ)~ 次はもっと大事にして”

また最初のサビと同じ内容が続きます。男は諦めずに遊郭に通いますが、結局同じ結果を迎えているという意味ですね。しかし一点注目の箇所があります。最初のサビでは「寂しさと嫉妬ばっか残して」とあったのがここでは「寂しさ」が抜け落ちています。これは他の客に対する嫉妬はまだ感じているのに対し、狙いの遊女に対し感じていた「寂しさ」というのは無くなってきたという暗示でしょうか。

アウトロ ”宵闇に~”      出典: 米津玄師/ Flamingo  

最後のフレーズは1番のメロと同じです。MVに注目していただくと面白いのですが、この最後のシーンはMVの冒頭と同じ構図となっているんですね。ここから想起されるのは結局男は同じことをまた繰り返している、ということなんです。相手は入れ込んだあの遊女でしょうか、いえ、最後のサビで「寂しさ」が抜けてしまっていたことから、相手の遊女は同じ女ではなく、別の女に変わったということが暗示されます。

おわりに

最後まで僕の解釈をお読みいただきどうもありがとうございます。

いかがだったでしょうか? 冒頭に紹介した米津氏のコメント通り、もうこれでもかっていうくらい「みっともない」男を描き切っているのではないかと思います。米津さんは作詞作曲、MVの構成やジャケットのデザインも自分でこなしてしまうのですから大した才人ですよね!

ここで載せた解釈はあくまで個人的な解釈なのでもちろん正しいかどうかは分かりません。しかしそれほど外れてはいないんじゃないかな、とは思っています。

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