渡米きっかけとアメリカ就業ー経歴編5 流し台工場ライフと希望

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うまく簿記の勉強に時間を使えたこと、そして日本にいるうちに首尾よく日商簿記2級が受かったのは我ながらグレートでした。6月にボーナスが支給されるとすぐに担当社員に連絡をとり速やかに退職する旨を連絡しようとしました。丁度そのタイミングで工場派遣担当社員(実際は特別チームを運用していたので執行役員でしたが)は僕の次の派遣先を選定してきてそれを僕に伝える矢先だったようです。その役員は電話越しに

「そろそろこちらの派遣先も6月で任期終了です。気になってますよね、次の派遣先??」

なんか楽しそうでした。その口ぶりから”やはり本社に戻るわけではないんだな”と察しました。もっともその時点においてはアメリカに行く旨は固まっており、正直次の異動がなんでもあろうが、どうでもよかったのですけれども。

「実は、次は京都です! 関西圏ですよ、楽しみでしょ?」

笑っちゃうくらい彼の空気と僕の空気は電話越しに違いました。僕はもう日本エイムにお世話になるつもりはない事、自分自身で今後の予定を考えている旨を伝えました。すると

「どうして相談してくれなかったんですか!」

というような事を言っていましたが僕は

”アンタに相談して一体何が起こるというんだ、俺の時間をこれ以上無駄にしないでくれ”

というような事を会話中、言いはしないけど頭の中では思っていたと記憶しています。
”バカな事をほざくなよ、誰が京都なんざ行くか!”とか。

それと時同じくして”日興のバキューン部長(K部長)にはヒドイ辞め方で、嫌な思いをさせたよな。今俺がこんな事になってるのも、きっと因果応報なのかもな”、とそんなことも考えている日々でした。

その電話の少し前、5月のゴールデンウィークにはアメリカから彼女が遊びに来てくれました。一週間でしたが一緒に過ごす時間のために僕は可能な限り有給をとり、彼女には新鮮な地方都市である深谷付近や、東京で一緒に遊びました。そしてその年のうちにアメリカに行って一緒に生活することを真剣に考えていることなどを相談し、そして具体的な計画を一緒に考えました。もともと早くから僕に渡米して欲しいと思っていた彼女は本当に喜んでくれました。

何より彼女は僕が工場派遣になってしまった事や、アメリカで無職になってしまう事を本当に全く気にしていなかった。知っていたことですが、彼女は自分の父親だってブルーカラーだし、親戚の多くもブルーカラーだよ、と僕を慰めるために改めて言ってくれました。彼女は僕がリッチな証券業界で働いているから僕と付き合ったいたわけではなかった、きちんと僕の内面を見て僕と付き合ってくれていたんだな、と再確認できてとても嬉しかったのです。

ここにきて「なんでもっと早くアメリカに行く決断をしなかったんだろう」と、ようやくこの思考に行きつきました。まるで長い長い迂回路をしゃかりきに走っていたように感じます。

この年の9月に渡米実行を計画し、夏の7月、8月は群馬の実家にお世話になりました。アメリカでのF-1(学生)ビザの取得、当面の資金繰り、そしてUSCPAの勉強、この時にメイン州への出願を行いました。これで受験票を取ればついに科目受験が可能です。

僕は渡米前に友達やお世話になった人たちに挨拶しながら、アメリカで会計人になる、かならずUSCPAを取得して監査人になるんだ、と決めました。はっきりをこれを心に決めたのは工場を辞めてからです。日本での職とキャリアの夢を捨てた僕が持った新しい希望でした。もう当面日本に帰る予定はありません。

2011年9月、僕の20代最後の夏を過ごしたのち、母と妹に送られて僕は成田から彼女の待つアメリカ、マサチューセッツ州へ向かいました。

次回 ボストン近郊の語学生に続く!

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