どうも、駆け出しブロガー らーきいです。
経歴編の過去の話はこちら(1./2./3./4.前回)
2011年4月、辞令を受け取ってからすぐに五反田の本社勤務から埼玉へ移動になりました。工場での仕事が早速始まります。
始業8:30時、終業17:30時(だったと思います)、途中1時間の昼食が入ります。工場での流れ作業でびっくりした事は残業はなく仕事が本当にきっちり時間通りに終わることでした。いままで営業と経営企画をやりましたが、定時で仕事が終わるなんて例外的だったのである意味カルチャーショックでした。
仕事の内容はといえば本当にシンクを作る作業を延々繰り返すだけ、特に工夫を凝らすような場面はありません。平べったい金属のプレートだったものがプレスにはいって台所にあるシンクの形になります。それを運びまとめて金具を付ける、そして次の作業場へ送る。それだけです。ノルマも差別化することもない、実に単純な業務です。
どんな仕事も最初は何かしらおもしろいかもしれませんが、流石になれてくると退屈になってきました。あまりに退屈で”こりゃ好きになれるような仕事じゃないな、、、”と思ったのが正直な感想です。まあ、もっと全体像がつかめてくれば前の工程や次の工程などの流れも考慮して仕事を工夫していくような事があるかもしれませんけど。
住居としては一段落ついたらレオパレスなどの近くの安いアパートをあっせんしてもらえるようでしたが、当面は受け入れ企業の社員寮にお世話になりました。鍵らしい鍵のない部屋を貸与され、無料で2食付きです。
工場内にも社員食堂があり、格安で大盛りの食事ができました。その時僕が思ったことは「食事といい、仕事時間の短さといい、なんて健康的な生活なんだ!」ということでした。賃金こそ低いですが僕が大学卒業以来5年、僕が持つことのできなかった健康的で時間的な余裕のある生活に”これはこれでとんでもなく価値のある生活だ!!”と気づいたのはありがたい出来事でした。環境が変わるとたくさんのことに気づきます。
時間があるというのは非常に良い事です。何かを目指しても時間がなければできません。当たり前です。
僕は証券を売ったり、経営事務をやりながら、自分の本当に目指すことに対して、何も努力ができていない事にようやく気付きました。僕はこの6時で業務が完了する生活に入り、猛烈に勉強を始めました。まったく進められなかった日商簿記の3級、そして2級。
3級の勉強範囲のマスターは1週間かからなかったと思います。社員寮から割当のアパート(もっとも自腹ですが)に引っ越す前に2級の勉強に入り、2級も確か6月には受験準備が整い90点くらいの点数で合格しました。シンクを作りながら仕事が終わったらみっちり勉強をし続けた結果です。思ったよりもあっさり受かりました。通信教育やスクールに行く人もいると聞いていましたがそれには及びませんでした。苦渋と自分の人生のリベンジに燃えていた社員寮の4畳半の畳の上、そこでの勉強に対する集中力は自分事ながら大したものだったと思います。
思い返してみれば今に続く会計人人生として本当のスタートを切ることができたのは証券を売りながらUSCPAのスクールの門を叩いた時ではなく、あの社員寮の畳の上だったんだろうなあ、と思います。
深谷での工場労働生活は4月から2か月半超に及びました。夏が始まるころにはもともと僕自身が単純な人間だったためか、難しい事を考える必要のない工場作業と健康的な生活はある意味好きになっていましたが、やはり会計経理で身を立てたいという思いは変わらずでした。
6月はコーポレート社員だった実績を元にボーナスが支給されます。工場に転属してからすぐに立てた計画はボーナスをもらったらすぐに日本エイムをやめること、そして無職でもなんでもいいからアメリカに行って彼女と暮らす事、と決めていました(もちろん彼女と相談しての上です)。何も足かせはありません。
自分が本当にやりたいことを考えたらこの会社で工場労働を続ける意味は全くないのです。そして何より自分をいままで待っていてくれていた人をこれ以上一人にしておくことはできない、と本当に認識しました。
辞令を受け取った時には「しばらくしたら本社に戻すから」みたいな寝言を役員から聞いていましたが、そんなものハナっから信じていません。そもそも経理で採用をしておきながら別の部署に配属し、さらには6か月で工場派遣に飛ばすような采配なのですから別に社員の事など大して考えていない会社なのでしょう。なので工場労働が始まってすぐから、どのような形でもアメリカに行って次を考える事、彼女の事、そして自分のキャリアを中心に計画を立てていました。
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