渡米きっかけとアメリカ就業ー経歴編4 転職と転落

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当時の経営企画での仕事は主に営業や財務データ収集、役員たちの依頼する資料作り、営業週報の作成、ミーティングの議事録作成、予算案作成資料準備(肝心の予算案自体は自分の組織では作成能力がないのでコンサルに投げていました)などなどなど。そして雑務が大量に付きまといます。

僕は証券営業では一応戦力扱いでしたが、事務方の仕事では全くの初心者です。なんせエクセルもワードもそれまでほとんど使用したことがなかったわけです。社内のメールシステムでさえ証券リテール業ではそれほどなじみがありませんでした。そんなわけでもう仕事を覚えるのと日々の業務についていくこと自体で毎日必死も必死です。一日13時間から15時間くらい、終電はあたりまえでした(というのも仕事ができていない僕に限って、ですが)。休日もそこそこに仕事しなくてはならず、それでいて給料は証券会社時代から福利厚生なども含めれば25%以上の激減をしていた計算だったと思うのですが、時間的な忙しさは証券営業の比ではなかったイメージです。

そんなこんなですが、再び経理で一人前になりたい一心でとにかく必死で働いていました。それでいて業務は経営企画という、経理畑とは違うという矛盾も抱えています。そしてその秋に日商簿記3級を受験しましたが、見事に落ちました。全然箸にも棒にもひっかからないような点数で落ちたと記憶しています。普通に頑張れば普通に受かるであろう試験、普通に頑張ることもできないくらい仕事が忙しく、クタクタだったのです。しかもその仕事は経理とは直接的には何の関係もない仕事。僕にとって大きな目的に沿って動く分には明らかに赤信号が出ていました。

転職して3か月が経った12月、いつも毎年送られてくる彼女からの誕生日プレゼントが届きませんでした。「おかしいな、、」と思っていたのですが、忙しくてそのままに。スカイプもとにかく忙しくてそれまでの2日に一回のペースではなく週末だけ、といった頻度になっていました。僕はその次の週末に彼女とスカイプで話した時にある程度はっきりと彼女の意思が僕と一緒にいる未来から離れていっているのを感じました。

僕はすぐに大学の時の後輩で僕と彼女、二人の事を知っている女友達Aに会いアドバイスをもらいに会いました。「すぐに会うべき、アメリカにいって彼女とどうするか話すべき」そんなアドバイスです。もはや理屈じゃなくて感情の世界だな、と理解しました。

僕はかなりサプライズに近い形で2010年の年末から翌年年始にかけて彼女に会いに行きました。そこで再び彼女は僕との関係を考え直してなんとか関係は持ち直しました。本当によかったです。ただそれでもどうすればいいかはあまりの忙しさと必死さにきちっと判断がつかない状況でした。

「忙」しい、とは本当に文字通り心を亡くすんだな、と今思うとその通りだなと思います。そしてそんなときは間違った方向に突き進んでいても目の前のタスクの山に隠れてしまいでまったく気づかないものだとも。

そして矢継ぎ早に転機が訪れました。2011年3月、皆さんもご存じの通り大震災が起こります。しばらくは交通もマヒして仕事にならない日々でしたが、その一方で日本エイムには東北地方にも仕事を請け負っている工場があり、その関係で大きく方針が変わったり、社内機構の編成も変わっていったのです。そこから2週間程度が経過したある日、唐突な辞令を受け取ります。

「埼玉県北部にある家具会社でキッチンの流し台の製造業務に従事してくれ」

つまり左遷です。

本社機能グループから派遣労働グループへの転属。なんでも社内の編成変更で、各コーポレート部署と派遣グループの管理部署が1名ずつ工場行き人員を捻出しているので経営企画から誰も出さないわけにはいかないだろ、とかいう話でした。半年くらい前に入ってきて当面一番戦力になっていない僕が切られたわけです。

はっきりとはわかりませんでしたがつまるところ、つまり会社としての給与減策であったように思います。実際に僕の給与体系は変わり、手当などはつかなくなりました。手取りは18万を切り、もはや住宅費も含む各種費用を賄うと貯金もままならないような報酬となったと記憶しています。完全な転落です。

悲しかった。何のために大手証券会社を辞めてまで、給料を大幅に下げてまで、規模で落ちる人材派遣会社に転職してきたのか。切に経理マンとして新たなスタートを切り、将来を見据えて腕を磨きたかったからです。それが社内のよくわからない都合で経理とは何の関係もない業務に跳ね飛ばされました。思い描いていたキャリアとかいうものは眼前から消えました。家に帰って苦しくて悲しくて泣きました。行かせてもらった大学での学歴や、その後の大企業での活動実績など、そのまま全部”無価値”と否定されたような気分にもなりました。

しかし同時に貴重な教訓も得ました。実力のない人間がこの資本主義社会でどういう扱いを受けることになるのか、これはこれ以上ないくらいの教訓でした。

そしてそれからすぐに深谷にある工場への挨拶と、住んでいた松戸から深谷へ引っ越しの準備となり、いつ本社へ戻れるか全くわからない工場派遣社員として旅が始まります。

次回流し工場ライフに続く!

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