ニューヨーク近郊の会計士 仕事日記 番外編 軽く小説(的長さ)! USCPA合格まで道のりと彼女への感謝 日本編

USCPAの勉強法

彼女との関係

そんなパワハラライフの中ですが彼女とはしっかりと繋がっていました。実際に日本にいる期間もありほとんど同棲していました。そんな彼女との関係を深めていく中でアメリカにいつか行く可能性を漠然と考えるようになっていったと思います。とは言ってもそれでもデキる営業になって日興証券でえらくなりたいと思ってましたし、社会人とサラリーマンとして成功することが、自分の頭の8割以上占めていたといっても過言ではないと思います。

悲しいことは自分にはその才能はなかったということ。営業の才覚もなければ、サラリーマンとして必要な気遣いや気づきや要領の良さは自分には本当にありませんでした。

自分の性格や素質を考えれば、王道を努力で進むのではなく、誰もやらないようなことをリスクを抱えながらでも突き進んでいくほうが成功に近づくといったことはつゆほども考えていませんでした。

今考えればあまり寄り道せずに彼女と一緒になるためにアメリカに行くほうが順当だったと思いますが、まあ人生は回り道、ということでしょうか。

さて、証券マン生活ですが2年目にさんざんシバかれたおかげでしょうか。3年目には成績的にもいくらかマシになったかな、と思いきや3年目の秋には神奈川の川崎支店に異動となりました(同じ首都圏で距離的にそれほど離れていないので引っ越しする必要なくてヨカッタ、と安堵していました)。

S課長がどうも部下をシバきすぎた事が原因で本社から目をつけられてしまい、その関係でシバかれ対象の私が軽く異動となった(というような噂だったと思います)。いくらか営業としてはまともになったと信じたいのですが、そのころの私はといえば「このまま営業続けていいのか、、」と漠然と考えていました。営業という特技を磨いていくのは悪くなかったのですが、常にプレッシャーにさらされ続けること、資格など定性的に評価される基準がないこと、そして何より証券会社での営業というのは正直、完全に自社の利益中心であり、ノルマとなる売り物は顧客の利益とは程遠いような価値のない金融商品ばかりでした。

その時僕はせっかく入社できた大手の証券会社で立派になってスーパーセールスみたいなビジネスマンになりたい、順当に成績を上げていって20代で1000万円を突破していくようなデカイ年収を手にしたい(実際日興証券ではそれは可能でしたし、営業として生き残っている人にとっては30前に1000万というのは全然珍しくなかったのです)と思っていました。そしてそういう意味では彼女の事よりも自分のキャリアの方が大事だったということ、当初はそのような心境であったのは否めません。

しかしそれでも証券営業しか経験していない自分が将来本当にやりたいこと、他のキャリア、海外での可能性、彼女の関係などいろいろと頭の中ではごっちゃになりながらだんだんと「自分は何をすべきなのか」という事について悩みながら心がうつろい続けていました。

次のページに続く彼女との関係とUSCPAについて

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