ニューヨーク近郊の会計士 仕事日記 番外編 軽く小説(的長さ)! USCPA合格まで道のりと彼女への感謝 日本編

USCPAの勉強法

左遷

そして矢継ぎ早に転機が訪れました。2011年3月、皆さんもご存じの通り大震災が起こります。しばらくは交通もマヒして仕事にならない日々でしたが、その一方で日本エイムには東北地方にも仕事を請け負っている工場があり、その関係で大きく方針が変わったり、社内機構の編成も変わっていったのです。そこから2週間程度が経過したある日、唐突な辞令を受け取ります。

「埼玉県北部にある家具会社でキッチンの流し台の製造業務に従事してくれ」

つまり左遷です。

本社機能グループから派遣労働グループへの転属。なんでも社内の編成変更で、各コーポレート部署と派遣グループの管理部署が1名ずつ工場行き人員を捻出しているので経営企画から誰も出さないわけにはいかないだろ、とかいう話でした。半年くらい前に入ってきて当面一番戦力になっていない僕が切られたわけです。

はっきりとはわかりませんでしたがつまるところ、つまり会社としての給与減策とそれを見せつけることで正社員たちへ脅しをかけるような経営方策であったように思います。実際に僕の給与体系は変わり、手当などはつかなくなりました。手取りは18万を切り、もはや住宅費も含む各種費用を賄うと貯金もままならないような報酬となったと記憶しています。完全な転落です。

悲しかった。何のために大手証券会社を辞めてまで、給料を大幅に下げてまで、規模で落ちる人材派遣会社に転職してきたのか。切に経理マンとして新たなスタートを切り、将来を見据えて腕を磨きたかったからです。それが社内のよくわからない都合で経理とは何の関係もない業務に跳ね飛ばされ、その先には派遣労働です。思い描いていたキャリアとかいうものは眼前から消えました。家に帰って苦しくて悲しくて泣きました。行かせてもらった大学での学歴や、その後の大企業での活動実績など、そのまま全部”無価値”と否定されたような気分にもなりました。

しかし同時に貴重な教訓も得ました。実力のない人間がこの資本主義社会でどういう扱いを受けることになるのか、これはこれ以上ないくらいの教訓でした。

直後は無理やり半休をもらい、彼女に電話しました。彼女はそんな状況になってしまった僕に対してサポートの気持ちと優しい言葉をかけてくれました。そのやりとりに僕は救われ、一時の安息を得たのを覚えています。

そしてそれからすぐに深谷にある工場への挨拶と、住んでいた松戸から深谷へ引っ越しの準備となり、いつ本社へ戻れるか全くわからない工場派遣社員として旅が始まります。

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